おふくろの味は消えゆく。

おふくろの味は消えゆくか。

 新年、あけましておめでとうございます。

父親が亡くなってからは、母親が一人でいるものですから、折りをみて、なるべく実家には帰るようにしているところがあります。まあ、実際にはそれほどでもないのですが、特に年末年始は、地元の連中が集まることもあって、ここ数年は実家で過ごすことが多くなりました。
今年のお節は、どこぞのお茶屋さんから取ったとかで、まあ、縁起物なので食べるは食べるんですが、これと言って特にうまいということもなく。でもお雑煮は別。小さい頃から食べているからか、おいしいと思うし好きだし、地域や家庭でいろんな「お雑煮」があると知った今では、これが「おふくろの味」なのかな、とか思います。

大人になって知った、銀座や日本橋のお高いてんぷら屋さんよりも、学生時代に通った「いもや」の方が全然うまいぜ、なんてことはよくあると思いますが、「思い出込み」で「おいしい」ものって、たくさんありますよね。僕はこれを「懐かしおいしい」と呼んでます。(笑)
「駄菓子」とか「おふくろの味」なんかもたぶんこれで、客観的な「おいしさ」が、主観的な「好き」という嗜好に昇華するためには、記憶とセットになる必要があるように思いますが、だとすれば、高級な料理も、行列のお店も、やっぱり「おふくろの味」には記憶の総量から言って適いっこありませんな。

20世紀に「家電」が飛躍的な発展を遂げて、世の女性たちを家事労働から解放してきました。さすがに今どき、ラグビー部のマネージャーだって「たらいに洗濯板」なんて使ってないと思いますが、現代の「家事がたいへん」なんて高度成長以前のそれとは比べ物になりませんよね。見てきたわけじゃないけど。
若い時分に「料理が苦手」なんて女の子も、結婚して毎日毎日作っていれば自然と、それなりにできるようになるわけですが、これもやっぱり家族でファミレスに行くのが一大イベントであった昭和に比べれば、中食外食の機会も増えて、家庭によって差こそあれ、「うちのは料理しない」なんて話もあったりなかったり。

このまま女性の社会進出がさらに進んで、家事に割く時間が減っていくと、お節料理も買ってくる時代ですから、そのうち「おふくろの味」さえもスーパーで「おふくろ風カレー(南関東版)」とか、「おふくろナンチャラ(昭和風)」とかを買ってくるしかない時代になったりして、なんて思ったりもしますが、これはたぶん、ある意味正しい。
そもそも正月の縁起物をお重に詰めて「お節」と呼ぶようになったのは戦後のことですし、僕らの大好きだったカレーライスや、ハンバーグにエビフライみたいな家庭料理は、僕らの母親世代で初めて一般家庭に普及したもので、おふくろのおふくろ、つまりおばあちゃん世代が現役の頃にはなかったものです。

カレーと言わず、もうちょっと遡ってみて、「おふくろの味」の代表格ともいえる「肉じゃが」にしたって、東郷元帥が作らせた帝国海軍の艦内食が起源だというし、「とんかつ」は明治32年に銀座の洋食屋さんで考案されたものだいう。「発明」されて二世代、一般家庭に普及してまだ一世代という感じ。
前に触れた「専業主婦が一般的だったのは」のコピペじゃないですが、日本の場合、江戸と明治で食文化に相当な断絶があって、さらに戦争を挟んで極度に貧しかったり、高度成長から飽食の時代へと目まぐるしく変化してきたので、ほぼ世代ごとに異なる「おふくろの味」のイメージを持っているはずです。

「子供の頃食べたおかあさんの手料理の味」の懐かしさやおいしさは、それが次第に廃れていくからこそ湧き上がるノスタルジックな感情というだけなのかもしれませんね。つまり、「おふくろの味」は消えゆくからこそ「おふくろの味」なのかもしれないとか言ったら、言葉遊びが過ぎますか。
いやいや、桜は散るから美しく、老いるから若さが眩しいようなコトはあります。親父たちが「芋粥」とか「すいとん」を懐かしんでいたように、僕らはお正月の「お雑煮」や「お節料理」を懐かしみ、その子供たちは「(´-`).。oO(ママのバーニャカウダ)」なんて言う時代が来ているのかもしれませんが、そんなことはどうでもいいんです。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

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