結婚と空論とアカデミズムと。

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先週、かな?MBS時代の同期の一人が、今度関西に栄転するということで、久しぶりに数人で、懐かしのお茶の水のももやに集まりました。いやあ、修了してから早何年?ビザイン+1年だから7年ですか。あっという間のような、随分昔のことだったような、微妙な年月ではありますが、みんなほんのり、うっすらと老いの気配は感じさせるものの、まー全然変わってませんでした。(笑)
僕は当時、それほど「ももや派」でもなかったんですが、まーそれでも何度かは顔を出していて、あの頃はなんか、いっつも空いていたような気がするんですが、空いてたから行ってたような気がするんですが(笑)、この日は金曜日だったからか、「混んできたら2時間で」なんて、軽く盛況な感じを醸し出していました。これもアベノミクスの恩恵か。

7年経って、未だ結婚してない人、離婚と再婚を遂げた人、相変わらずおしどり夫婦を演じてる人、人それぞれの人間模様でしたが、未婚な僕も調子に乗って「夫婦ってさあw」とか、「結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如。(キリッ」なんて知った風な口(クチ)を聞いておりますと、「おい、まず結婚してから言えよw」とか、「机上の空論」とか一刀両断にされるわけです。
僕は僕で、「そんなもん(結婚)してなくたって分かるわw」とか、「いや、おれの友達んちなんかはさ」とか食い下がるわけですが、そこで、ふとデジャヴのような感覚が。「これ、どっかで一度、、、やってる。」みたいな。記憶の糸をたどってみると、それはまさしくMBS時代に、アカデミズムの中で純粋培養されたような教授と、僕ら「実務家」がやりとりしていた光景でした。

一般的に「学者」という人たちは、ある社会的な事象などに対して大所高所から、客観的に分析なり研究なりして、それを実社会にフィードバックする役割を担っているわけですが、客観的だからこそ見えるモノと、客観的であるがゆえに見えないモノがある。彼らは概して比較的高い社会的地位を自認しているケースが多いためか、この「見えないモノ」に対してのコンプレックスが強い。
特に百戦錬磨のビジネスマンが集うビジネススクールなどにおいては、論文を何本も書いてる気鋭の若手講師が、「えー、近年、自動車業界ではー」と滔々と持論述べたところで、学生にデンソーの社員がいて、「先生、それ違います」と言われてしまえば、もう立つ瀬がないわけです。だから彼らは「実務家の方たちはー」等々の保険をかけながら議論する。MBSでは特に、僕ら1期生だったので、先生方も本当大変だったと思います(笑)

然しながら、本来、主観と客観というものは、どちらが正しいかというモノではなく、表裏一体、相互を補完し合うべき関係。アカデミズムの持つ客観的な知識を、実社会の持つ主観的な体験と統合し、まさしく社会としての知行合一を図らんとする動きが、昨今の「産学連携」や、まさしく社会人向けビジネススクールの隆盛につながっているのだと思います。
とは言うものの、、、(笑) 議論が白熱してくれば、「ばかやろう!こちとらもう10年この研究でメシ食ってんでい!」、「なにおう!学生相手にゃドヤ顔できてたかもしれねーが、叩き上げの俺たちにも通用すると思うなよ!」という「プライドを賭けた戦い」に陥りがちなのは、ビジネススクールに限らず、経営と現場、マーケと営業、営業と製造、etc. 企業の中でもごく普通に見かける光景と言えましょう。

翻って日常の生活や業務で考えてみると、未経験者や部外者に対する「やったこともないくせに」という気持ちって、少なからずありますよね。特に意見対立が生じた場合などには、そう思ってしまいがちだと思いますが、アカデミズムの社会的意義から考えても、主体となる我々実務家にとって、「未経験者」や「部外者」の持つ客観的視点の有用性は疑いようもありません。
自分もどちらかというと「プライドを賭けた戦い」に陥りやすい性分ではありますが、出自や知見に関わらず、他人の声に柔軟でなければいかんと。特に、これからもっともっと経験を積んで、熟練になればなるほど、(その分野における)未熟な人間からの声は入りにくくなる一方です。柔軟性や自浄能力を高めるためにも、これはとても重要な目標の1つ。

なーんてことを、焼き鳥片手に、ヤイノヤイノ言いながら、酒を酌み交わせる仲間が、この年になってからできたっていうのが、高い学費を払って、仕事ほっぽって、学校に通った最大の収穫っていうのもどうよw なーんてことを、焼き鳥片手に、ヤイノヤイノやってきました。というお話。

おしまい。

 

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