アモータルな世界。

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最近、人生観ががらりと変わってしまったことがあります。というか変わってしまった。それは「不死」についてです。話題のNHKスペシャル「人体」を見ても、近年の医療の進歩は凄まじく、この先10年、20年というスパンで、これまで以上にいろいろな病気や症状が解決されていくであろうことは明白です。
昨年、知人のところで奥歯を2本インプラントにしたのですが、最新のインプラントは歯茎を切開することなく、歯茎の上から3Dでスキャンして、そのまま(歯茎の上から)ズドンとインプラントを打ち込むんですよ。縫合や抜歯もないので身体への負担はほとんどと言っていいほどありません。まさにお手軽。まさに身体のパーツをポイと交換できる技術を身をもって体験しました。

「死」とは言うまでもなく、身体のどこかが壊れて、脳に血流が行かなくなった状態のことを言うわけですが、近い将来、身体の壊れたパーツを、もっと手軽に、まるで自動車のように交換しながら寿命を伸ばしていく社会が実現していることでしょう。
いやいや心臓はそんな簡単にはできないよ、毛細血管は、神経系は、という声もあるでしょう。いま僕は46歳ですが、平均寿命の80歳まであと34年あります。医療技術の発達スピードは加速する一方ですから、34年後の平均寿命は100歳を超えているかもしれません。100歳まではあと54年あります。54年後の平均寿命は、、、と考えると、僕らの世代でも50年後くらいに、ある程度の医療技術を享受できるだけの権力や資金があるグループは、120歳、150歳と生きながらえるようになっているんじゃないかと思うわけです。

150歳と言えば今から100年後です。どんなにすごい技術が開発されて普及していることでしょうか。なにしろ100年後の未来ですから、既に人類は200歳くらいまで生き延びる技術を手にしているかもしれません。200歳と言えば150年後です。150年後の未来の人類の寿命は300歳に、250年後の人類は500歳に、、、
なにが言いたいかと言いますと、僕ら世代の中に、既に「不死」の未来に生き残れる人がいるのかもしれない、ということです。「死世代」と「不死世代」の分岐点はどこだかまだ分かりませんが、なんらかの方法で100歳くらいまで生き延びることができれば、「とりあえずの不死」の世界へギリギリ滑り込めるのかもしれない。「とりあえずの不死」さえ手に入れられれば、「完全なる不死」の世界まで生き残れる可能性が大幅に高まるだろう。ということです。
※「不完全な不死」は事故や殺害行為には対応できないから。

1000年後の未来における不死のスタイルは想像だにできません。生身の身体のままiPS細胞のような生体パーツを培養生産して交換していくスタイルなのか、銀河鉄道999のように機械化するのか、はたまた攻殻機動隊のように、電脳的な意識体としてオンライン上で生きているのか。いずれにしてもSFの世界です。
また一方でAIやロボットの技術も同じようなスピードで発達しているでしょうから、不死の機械化された人類と、不死の人類化された機械たちとの境界線も曖昧なものになっているかもしれません。もしくは脳とAIは統合されていて、境界線なんてなくなっているのかもしれません。なにか本当に、まさしく僕らが小さい頃から親しんできたマンガのような世界が、現実の未来としてそこにあるわけです。 

さて、ここで「遠い未来、人類は不死になる」、「僕らの一部はその未来まで生き残ることができる(かもしれない)」、「僕らの一部は既に不死である(かもしれない)」という三段論法が成り立つわけですが、この「不死」という能力は、人類のみならず「生命」が誕生して初めて手にする能力、及び体験です。生命史37億年で初めてで、最大のパラダイムシフトが起こります。
「生きる」という言葉は「死ぬ」という言葉の対義語です。果たして「死ななくなった」我々は「生きている」と言えるのかどうか。「生きている」と言えなくなった我々は「生命体」と言えるのだろうか。世代を伝える(=自身は死ぬ)ことで「生きて」きた我々は、自分自身という個体が生き続ける以上、子孫を残す(=個体を増やすだけの行為となる)必要があるのだろうか。子孫を残す必要がなくなった我々は、雄と雌で番い(つがい)を形成する必要があるのだろうか。そう、つまり「俺たち結婚とかする意味あんのかなw ( ないんじゃん?) 」 ということです。

思った以上に大作になってしまったので、今宵はここまでにしとうございます。
以上、よろしくお願いいたします。

いまから名古屋\(^o^)/ 

 


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1点の重み。

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久しぶりに秩父宮に行ってきました。

後半22分に1点差で勝ち越しを許した時点では、まだグラウンドにもスタンドにも楽観的な空気がありましたが、「この1点が残り5分くらいになると絶対大きくなるんだよね」と話してました。そして残り5分、1分、ノーサイド。21-20。我が母校、明治大学は21年ぶりの全国制覇を1点差で落としてしまいました。
「落とした」というのは、この試合は取れる試合だったから。本当に後半15分までは20-7と点差の上でも圧倒していて、見ていて穴という穴もありそうにありませんでした。ところが後半15分、20分と2本トライを取られて、そこからの巻き返しができなかった。キッカー堀米君の不調も大きい。コンバージョンキック1本決めていれば、逆に1点差で勝ってたわけです。

「とは言え19年ぶりの準優勝は素晴らしい。20年の雌伏の時を超え、明大OBたちも久しぶりに盛り上がった。よくがんばった。」というのは簡単です。「2位じゃダメなんですか?」。ダメなんです。2位でも立派といい出すと、3位でも8位でも立派になって、延いては「参加することに意義がある」という話になってしまいます。敷居は下げだすと際限がありません。
今年新設という大学であればそれもいいでしょう。でも創部96年の明治は違う。メイジは優勝しなければならない。3年生以下諸君には「V9の帝京に1点差まで詰め寄った」のではなく、「1点差で落とした」と捉えてほしい。とは言え4年生諸君。準優勝は素晴らしい。よくがんばってくれました。笑

なぜおっさんがそんなことを言うかと言うと、おっさんの在学中は学生選手権を準決勝(永友組)ー優勝(元木組)-準優勝(南條組)ー優勝(信野組)とあまり負け試合を見たことがないというほどの、後に明大ラグビー部の第2の黄金期と呼ばれた時代の後半期。卒業して社会人1年目の時が、北島監督がなくなって紫紺に喪章を付けたあの松本組。そう、19年前の最後の優勝チームです。
「学生時代」と言うのは、社会人の人格形成において多大な影響を与える大切な時期。その大切な時期に、明ラグの黄金期が重なったのは、おっさんの学生時代を彩り、おっさんの人格形成に多大な良い影響を与えてくれたと思うからです。やはり今でも心の何処かで、あの類稀な体格と才能に恵まれた元木が、血の滲むような練習と激しいタックルで相手をなぎ倒し、前へ、前へ、と縦に突進し、優勝をもぎ取った姿を「当たり前」と思っているところがある。続く後輩たちもモチベーションを維持して気を引き締めた。この敷居は相当に高い。

連覇という偉業を遂げられるチームは、勝って尚、兜の緒をしっかりと締められるチームです。そう、今の帝京のように。おっと、「レンパしなくちゃいけないんですか?」なんてバカなことは言わんでくださいよ。優勝したら連覇を目指すのは大前提です。そういう人は勝手にレンパイしといてください。笑
学生本人にしてみれば、在学中に一度でも優勝できたら、それはそれでもう素晴らしい成果、思い出となることでしょう。でもチームは違う。4年生の血の滲むような努力を知らない新入生が、毎年「強豪校」だと思って入ってくる。ここが学生スポーツの難しいところですよね。毎年同じメンバーで戦えるプロや社会人のマインド・マネジメントなんて甘っちょろいもんだと思えるほどです。それほど帝京の9連覇は凄まじい。長い間伝説中の伝説として君臨した同志社・平尾組のV3も、単なる通過点として霞んでしまいました。

そんな学生スポーツの頂点で、漸く20年ぶりに勝ち上がってきたチームが、後半20分まで(ラグビーは40分ハーフです)試合を支配していて、コンバージョンキック(トライの後に与えられる2点相当のキックです)1本外したがために、1点差で敗れてしまった。入れていれば1点差で優勝していた。一方、怒涛の8連覇を成し遂げてきたチームは、後半20分まで相手にリードされながらも決してあきらめず、魂のこもったタックルで敵の追加点を阻止し、トライを取った。コンバージョンキックもしっかり決めて、わずか1点差で、前人未到の9連覇という偉業を成し遂げることができた。
勘の良い方はお気づきでしょう。そう、これ、人生も商売も一緒だと思うんですよね。こうして1点が明暗を分けるシーンというのは多々あります。たった1点で優勝できることもあれば、その1点で敗れることもある。

人生を40分ハーフの試合と捉えれば、今の僕らはちょうど後半折り返したばかりというところ。わずか1点で敗れた後輩たちの姿を見て、ここから気合を入れ直して、仲間とがっちり組んで、時にモールを押し込み、時にラックを連取して、前へ、前へ、と人生のトライを重ねていこうと決意を新たにしました。一方、商売には終りがありません。毎日が選手権の決勝、毎日が後半35分と思って、1点で落とすことのないよう、1点で勝てるよう、商売のコンバージョンキックを着実に決めていきたいと思います。笑
試合後はちんたらと新宿まで歩いて、気の置けない仲間たちとささやかな準優勝の祝杯をあげました。これも学生ラグビーのいいところ。写真中央は8000円もした「めいじろう」。旗が売り切れてたので大人買いしてしまいましたが、3トライも取ってくれたので十分元は取れました。笑 皆それぞれ人生のハーフタイムを折り返し、後半を迎えたところ。酒を交わしつつ、過ぎし日の前半戦を振り返ったりしました。いやはや、正月早々いい試合を見せてもらいました。(o^^o)

おしまい。


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ガソリン、温暖化、2040年。

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さてこれ、7月辺りに下書き保存していたものなんですが、思い立ってやはり書き上げてみることにしました。

7月に英仏両国が世界に先駆けて、「2040年までのガソリン車とディーゼル車の新規販売禁止」を打ち出したわけですが、その後ドイツと中国も追随することが明らかになりました。インドはなんと2030年までが目標だそうです。「ガソリン車のない世界」はここでほぼ確定的な未来になったと言えるでしょう。
日本は世界屈指のガソリン車大国であることと、常日頃、こういうことは世界の後手後手に回るお国柄ですので、おそらくはアメリカのトランプ政権(たぶんトランプは決断しない。)の次の政権の方向を見極めたあと、追随することになるんじゃないでしょうか。そこまでの環境にならないと国内自動車業界の反発は抑えられないし、そこまでなったら世界を市場とする自動車業界も世界的に同調するしかありません。

ガソリンや軽油などの「化石燃料」だけが温暖化の原因なのか、そもそも温暖化しているのかについては、なんら科学的なエビデンスはないわけですが、ただ、これほど急激に化石燃料が人工的に消費された時代もなかったわけで、それを抑制しようという本能的な試みは、多少西欧にありがちなヒステリックな反動政策の香りを感じないわけではありませんが、理解はできます。
実際、地球はこれまでも数千年周期で温暖化と寒冷化を繰り返していて、「極に氷床が有る」という氷河学の定義に基いて言えば、現代は未だ氷河期の最中(間氷期)であり、恐竜時代の「ジュラ紀」は今よりも平均気温で10~15度も高かったというし、地質学的にはほんのつい最近、およそ5000~6000年前の「縄文海進」の頃は1~2度高く、埼玉県では海が浦和辺りまで入り込んでいました。これらの気候に劇的な変化を与える最大の要因は火山噴火と大陸移動です。いくら人類が石油の蛇口を絞ったところで、イエローストーンが一度(ひとたび)噴けば、地球は再び1~2度の寒冷化を迎えることはおよそ自明であって、それは徒労というものかもしれません。

とは言え、2040年は割とすぐそこです。交通事故や病気にならない限り、僕らの多くは確実にまだ生きていることでしょう。高齢化のさらに進んだ20年後、年金の受給年齢も75歳に引き上げられ、65歳の僕らはまだリタイヤすることも許されず、「ガソリン車とディーゼル車の新規販売が禁止された世界」で現役として働いているはずです。
さて、「ガソリン車(以下ディーゼルは省略)のない世界」というのは、どういう世界なのか、面白半分でちょっと夢想してみましょう。

①ガソリンスタンドがなくなる。
思い切り身近なところからいきますと、未だ次世代のスタンダードは確定していませんが、仮にEVが勝者となっている場合、充電スタンドは小型で、町のあちらこちらにあり、それこそ自宅でも充電できるわけで、燃料ステーションのような場所、業種は消滅している可能性が大きい。
平成26年度のガソリンスタンドの数は、業者数で1万6429社、全国でおよそ3万3510ヶ所(資源エネルギー庁調べ)です。P7を見ると、平成7年まで一定で推移してたものが、翌8年度から減少の一途を辿っています。これがゼロになるわけですね。これらの業者の資金、土地、従業員が今後20年間でじわじわと放出されます。ガソリンスタンドは給油以外にもタイヤ交換などのサービスを行っているわけですが、それらのサービスはEV車でも必要になるでしょうから、その商売も外に出てきますね。オートバックスのようなところがさらに拾いに行くとは思いますが、違った視点の「EV関連サービス業」が勃興しているのかもしれません。
20年間で1万6000社が消滅するというのは、なかなかすごい変革です。信じられないようですが、切符切りの駅員さんや、街角の公衆電話もあっという間に消えてしまいました。僕も初めてやったアルバイトはガソリンスタンドでしたが、「っしゃっせー!ハイオク満タン入りまーす!」なんてノスタルジーをそそる言葉になるんでしょうね。

②ガソリン(重質ナフサ)が余る。
自動車用のガソリンと軽油の蛇口を締めたところで、航空機燃料や重油、プラスチック、化学品など石油の持つ多くの用途も同時に対策しなければ、石油の採掘は止まりません。ガソリンだけを規制すれば、ガソリンだけが余ります。
石油中の平均的なガソリンの製品収率はおよそ26%程度と言われているようですが、このうちの大きな用途を占めるガソリンの需要が消失するとなれば、ナフサから生成される他の製品の多くは大きく価格を下げるでしょう。また技術革新によって重質ナフサから軽質ナフサへの転用などが進めば、プラスチック製品含む多くの分野で価格低下が波及しているかもしれません。
ただ「温暖化」勢は今後、他の石油製品への締め付けも厳しくしていくことでしょうから、例えば下の図を見ると、LPガスや灯油の用途については現在においても既に代替可能であり、発電分野においても、20-30年後に常温核融合が実用化されているとすると、最終的には「石油全くいらない」という世界になるかもしれません。そうなると逆に石油自体の供給が細り、ナフサ価格も希少性から「上がる」ことになるかもしれません。プラスチック製品の大きな利点は「安さ」ですが、数十年後は高機能で高価格なエンプラなどを残して、「(安い)プラスチックがない」世界になっているのかもしれませんね。


(出典:石油情報センター

③国家間の格差が広がる。


(出典:グローバルノート

上の表は世界の産油国リストですが、これを見ると分かる通り、アメリカと中国以外は、石油資源に国家収入の多くを依存する後進国ばかりです。逆に言うと、20世紀に突如として現れた「石油」という富の分配システムが、先進諸国と後進諸国の富を平準化してきたとも言えるわけで、それが機能しなくなれば、富の偏在が再び進むことを意味します。
ガソリン拒否を打ち出した英仏独の真の思惑はこの辺にあるのではないかとも勘ぐりたくなるようなシナリオですが、これまで西欧諸国に敵対もしくは反発してきた勢力の多くが、収入を絶たれ、貧して鈍することになるわけです。要するに石油が出る前の時代に戻るわけですね。

一方で、千年に一度のボーナスタイムに、石油に代わる産業を育成しえなかったアラブは、再び不毛の砂漠になっているのかもしれません。やはり泡銭(あぶくぜに)は身につかないということでしょうか。王族など一部の富裕層の蓄えた金融資産は莫大であるものの、身を粉にして働いたことのないお大尽気質は、そう簡単には変えられず、その消尽も早いものと予想します。アラブ資本は石油という収入を失ったまま、徐々に細っていくことでしょう。
アラブという上客を失った世界の兵器産業は、次にどこを顧客とするのか。サウジアラビアの停滞と同時にイスラムの中心がトルコに戻れば、イスラム世界は世俗化して、また世界の仲間入りができるようになるかもしれませんが、貧困と不毛の宗教に先鋭化すれば、世界はもっと分断される。分断された世界で、アラブが中世的な部族社会と慣習を残していたとしても、石油さえなければ、欧米は中国におけるチベットなどと同様、それに積極的に干渉することはないでしょう。干渉しないことで、キリスト教xイスラム教の遺恨も薄まっていくのではないでしょうか。「石油がなければ世界は平和」というのも1つの真理なのかもしれません。

とまあ、だんだん取り留めもなくなってきたのでやめますが(笑)「ガソリン車禁止」というニュースはそれくらいインパクトがあって、「石油がなくなる世界」というのは、それくらい今と大きく変わった世界になっている可能性があるということです。20年後、つまり第2次大戦から100年経って、漸く次の世紀がやってくるという感じでしょうか。
石油輸入大国であった日本にとって、これは大きなチャンスです。自動車関連産業のEV化や核融合関連の技術開発をしっかり後押しして、「石油後」の世界でも地歩を築ければ、現在の貿易収支から言っても、莫大な国債残高と超高齢化社会の社会保障費もなんとかなるくらいの利潤と繁栄を謳歌できる時代が来るかもしれません。

乗るしかない。このビッグウェーブに。

かしこ。


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