1点の重み。

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久しぶりに秩父宮に行ってきました。

後半22分に1点差で勝ち越しを許した時点では、まだグラウンドにもスタンドにも楽観的な空気がありましたが、「この1点が残り5分くらいになると絶対大きくなるんだよね」と話してました。そして残り5分、1分、ノーサイド。21-20。我が母校、明治大学は21年ぶりの全国制覇を1点差で落としてしまいました。
「落とした」というのは、この試合は取れる試合だったから。本当に後半15分までは20-7と点差の上でも圧倒していて、見ていて穴という穴もありそうにありませんでした。ところが後半15分、20分と2本トライを取られて、そこからの巻き返しができなかった。キッカー堀米君の不調も大きい。コンバージョンキック1本決めていれば、逆に1点差で勝ってたわけです。

「とは言え19年ぶりの準優勝は素晴らしい。20年の雌伏の時を超え、明大OBたちも久しぶりに盛り上がった。よくがんばった。」というのは簡単です。「2位じゃダメなんですか?」。ダメなんです。2位でも立派といい出すと、3位でも8位でも立派になって、延いては「参加することに意義がある」という話になってしまいます。敷居は下げだすと際限がありません。
今年新設という大学であればそれもいいでしょう。でも創部96年の明治は違う。メイジは優勝しなければならない。3年生以下諸君には「V9の帝京に1点差まで詰め寄った」のではなく、「1点差で落とした」と捉えてほしい。とは言え4年生諸君。準優勝は素晴らしい。よくがんばってくれました。笑

なぜおっさんがそんなことを言うかと言うと、おっさんの在学中は学生選手権を準決勝(永友組)ー優勝(元木組)-準優勝(南條組)ー優勝(信野組)とあまり負け試合を見たことがないというほどの、後に明大ラグビー部の第2の黄金期と呼ばれた時代の後半期。卒業して社会人1年目の時が、北島監督がなくなって紫紺に喪章を付けたあの松本組。そう、19年前の最後の優勝チームです。
「学生時代」と言うのは、社会人の人格形成において多大な影響を与える大切な時期。その大切な時期に、明ラグの黄金期が重なったのは、おっさんの学生時代を彩り、おっさんの人格形成に多大な良い影響を与えてくれたと思うからです。やはり今でも心の何処かで、あの類稀な体格と才能に恵まれた元木が、血の滲むような練習と激しいタックルで相手をなぎ倒し、前へ、前へ、と縦に突進し、優勝をもぎ取った姿を「当たり前」と思っているところがある。続く後輩たちもモチベーションを維持して気を引き締めた。この敷居は相当に高い。

連覇という偉業を遂げられるチームは、勝って尚、兜の緒をしっかりと締められるチームです。そう、今の帝京のように。おっと、「レンパしなくちゃいけないんですか?」なんてバカなことは言わんでくださいよ。優勝したら連覇を目指すのは大前提です。そういう人は勝手にレンパイしといてください。笑
学生本人にしてみれば、在学中に一度でも優勝できたら、それはそれでもう素晴らしい成果、思い出となることでしょう。でもチームは違う。4年生の血の滲むような努力を知らない新入生が、毎年「強豪校」だと思って入ってくる。ここが学生スポーツの難しいところですよね。毎年同じメンバーで戦えるプロや社会人のマインド・マネジメントなんて甘っちょろいもんだと思えるほどです。それほど帝京の9連覇は凄まじい。長い間伝説中の伝説として君臨した同志社・平尾組のV3も、単なる通過点として霞んでしまいました。

そんな学生スポーツの頂点で、漸く20年ぶりに勝ち上がってきたチームが、後半20分まで(ラグビーは40分ハーフです)試合を支配していて、コンバージョンキック(トライの後に与えられる2点相当のキックです)1本外したがために、1点差で敗れてしまった。入れていれば1点差で優勝していた。一方、怒涛の8連覇を成し遂げてきたチームは、後半20分まで相手にリードされながらも決してあきらめず、魂のこもったタックルで敵の追加点を阻止し、トライを取った。コンバージョンキックもしっかり決めて、わずか1点差で、前人未到の9連覇という偉業を成し遂げることができた。
勘の良い方はお気づきでしょう。そう、これ、人生も商売も一緒だと思うんですよね。こうして1点が明暗を分けるシーンというのは多々あります。たった1点で優勝できることもあれば、その1点で敗れることもある。

人生を40分ハーフの試合と捉えれば、今の僕らはちょうど後半折り返したばかりというところ。わずか1点で敗れた後輩たちの姿を見て、ここから気合を入れ直して、仲間とがっちり組んで、時にモールを押し込み、時にラックを連取して、前へ、前へ、と人生のトライを重ねていこうと決意を新たにしました。一方、商売には終りがありません。毎日が選手権の決勝、毎日が後半35分と思って、1点で落とすことのないよう、1点で勝てるよう、商売のコンバージョンキックを着実に決めていきたいと思います。笑
試合後はちんたらと新宿まで歩いて、気の置けない仲間たちとささやかな準優勝の祝杯をあげました。これも学生ラグビーのいいところ。写真中央は8000円もした「めいじろう」。旗が売り切れてたので大人買いしてしまいましたが、3トライも取ってくれたので十分元は取れました。笑 皆それぞれ人生のハーフタイムを折り返し、後半を迎えたところ。酒を交わしつつ、過ぎし日の前半戦を振り返ったりしました。いやはや、正月早々いい試合を見せてもらいました。(o^^o)

おしまい。


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ガソリン、温暖化、2040年。

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さてこれ、7月辺りに下書き保存していたものなんですが、思い立ってやはり書き上げてみることにしました。

7月に英仏両国が世界に先駆けて、「2040年までのガソリン車とディーゼル車の新規販売禁止」を打ち出したわけですが、その後ドイツと中国も追随することが明らかになりました。インドはなんと2030年までが目標だそうです。「ガソリン車のない世界」はここでほぼ確定的な未来になったと言えるでしょう。
日本は世界屈指のガソリン車大国であることと、常日頃、こういうことは世界の後手後手に回るお国柄ですので、おそらくはアメリカのトランプ政権(たぶんトランプは決断しない。)の次の政権の方向を見極めたあと、追随することになるんじゃないでしょうか。そこまでの環境にならないと国内自動車業界の反発は抑えられないし、そこまでなったら世界を市場とする自動車業界も世界的に同調するしかありません。

ガソリンや軽油などの「化石燃料」だけが温暖化の原因なのか、そもそも温暖化しているのかについては、なんら科学的なエビデンスはないわけですが、ただ、これほど急激に化石燃料が人工的に消費された時代もなかったわけで、それを抑制しようという本能的な試みは、多少西欧にありがちなヒステリックな反動政策の香りを感じないわけではありませんが、理解はできます。
実際、地球はこれまでも数千年周期で温暖化と寒冷化を繰り返していて、「極に氷床が有る」という氷河学の定義に基いて言えば、現代は未だ氷河期の最中(間氷期)であり、恐竜時代の「ジュラ紀」は今よりも平均気温で10~15度も高かったというし、地質学的にはほんのつい最近、およそ5000~6000年前の「縄文海進」の頃は1~2度高く、埼玉県では海が浦和辺りまで入り込んでいました。これらの気候に劇的な変化を与える最大の要因は火山噴火と大陸移動です。いくら人類が石油の蛇口を絞ったところで、イエローストーンが一度(ひとたび)噴けば、地球は再び1~2度の寒冷化を迎えることはおよそ自明であって、それは徒労というものかもしれません。

とは言え、2040年は割とすぐそこです。交通事故や病気にならない限り、僕らの多くは確実にまだ生きていることでしょう。高齢化のさらに進んだ20年後、年金の受給年齢も75歳に引き上げられ、65歳の僕らはまだリタイヤすることも許されず、「ガソリン車とディーゼル車の新規販売が禁止された世界」で現役として働いているはずです。
さて、「ガソリン車(以下ディーゼルは省略)のない世界」というのは、どういう世界なのか、面白半分でちょっと夢想してみましょう。

①ガソリンスタンドがなくなる。
思い切り身近なところからいきますと、未だ次世代のスタンダードは確定していませんが、仮にEVが勝者となっている場合、充電スタンドは小型で、町のあちらこちらにあり、それこそ自宅でも充電できるわけで、燃料ステーションのような場所、業種は消滅している可能性が大きい。
平成26年度のガソリンスタンドの数は、業者数で1万6429社、全国でおよそ3万3510ヶ所(資源エネルギー庁調べ)です。P7を見ると、平成7年まで一定で推移してたものが、翌8年度から減少の一途を辿っています。これがゼロになるわけですね。これらの業者の資金、土地、従業員が今後20年間でじわじわと放出されます。ガソリンスタンドは給油以外にもタイヤ交換などのサービスを行っているわけですが、それらのサービスはEV車でも必要になるでしょうから、その商売も外に出てきますね。オートバックスのようなところがさらに拾いに行くとは思いますが、違った視点の「EV関連サービス業」が勃興しているのかもしれません。
20年間で1万6000社が消滅するというのは、なかなかすごい変革です。信じられないようですが、切符切りの駅員さんや、街角の公衆電話もあっという間に消えてしまいました。僕も初めてやったアルバイトはガソリンスタンドでしたが、「っしゃっせー!ハイオク満タン入りまーす!」なんてノスタルジーをそそる言葉になるんでしょうね。

②ガソリン(重質ナフサ)が余る。
自動車用のガソリンと軽油の蛇口を締めたところで、航空機燃料や重油、プラスチック、化学品など石油の持つ多くの用途も同時に対策しなければ、石油の採掘は止まりません。ガソリンだけを規制すれば、ガソリンだけが余ります。
石油中の平均的なガソリンの製品収率はおよそ26%程度と言われているようですが、このうちの大きな用途を占めるガソリンの需要が消失するとなれば、ナフサから生成される他の製品の多くは大きく価格を下げるでしょう。また技術革新によって重質ナフサから軽質ナフサへの転用などが進めば、プラスチック製品含む多くの分野で価格低下が波及しているかもしれません。
ただ「温暖化」勢は今後、他の石油製品への締め付けも厳しくしていくことでしょうから、例えば下の図を見ると、LPガスや灯油の用途については現在においても既に代替可能であり、発電分野においても、20-30年後に常温核融合が実用化されているとすると、最終的には「石油全くいらない」という世界になるかもしれません。そうなると逆に石油自体の供給が細り、ナフサ価格も希少性から「上がる」ことになるかもしれません。プラスチック製品の大きな利点は「安さ」ですが、数十年後は高機能で高価格なエンプラなどを残して、「(安い)プラスチックがない」世界になっているのかもしれませんね。


(出典:石油情報センター

③国家間の格差が広がる。


(出典:グローバルノート

上の表は世界の産油国リストですが、これを見ると分かる通り、アメリカと中国以外は、石油資源に国家収入の多くを依存する後進国ばかりです。逆に言うと、20世紀に突如として現れた「石油」という富の分配システムが、先進諸国と後進諸国の富を平準化してきたとも言えるわけで、それが機能しなくなれば、富の偏在が再び進むことを意味します。
ガソリン拒否を打ち出した英仏独の真の思惑はこの辺にあるのではないかとも勘ぐりたくなるようなシナリオですが、これまで西欧諸国に敵対もしくは反発してきた勢力の多くが、収入を絶たれ、貧して鈍することになるわけです。要するに石油が出る前の時代に戻るわけですね。

一方で、千年に一度のボーナスタイムに、石油に代わる産業を育成しえなかったアラブは、再び不毛の砂漠になっているのかもしれません。やはり泡銭(あぶくぜに)は身につかないということでしょうか。王族など一部の富裕層の蓄えた金融資産は莫大であるものの、身を粉にして働いたことのないお大尽気質は、そう簡単には変えられず、その消尽も早いものと予想します。アラブ資本は石油という収入を失ったまま、徐々に細っていくことでしょう。
アラブという上客を失った世界の兵器産業は、次にどこを顧客とするのか。サウジアラビアの停滞と同時にイスラムの中心がトルコに戻れば、イスラム世界は世俗化して、また世界の仲間入りができるようになるかもしれませんが、貧困と不毛の宗教に先鋭化すれば、世界はもっと分断される。分断された世界で、アラブが中世的な部族社会と慣習を残していたとしても、石油さえなければ、欧米は中国におけるチベットなどと同様、それに積極的に干渉することはないでしょう。干渉しないことで、キリスト教xイスラム教の遺恨も薄まっていくのではないでしょうか。「石油がなければ世界は平和」というのも1つの真理なのかもしれません。

とまあ、だんだん取り留めもなくなってきたのでやめますが(笑)「ガソリン車禁止」というニュースはそれくらいインパクトがあって、「石油がなくなる世界」というのは、それくらい今と大きく変わった世界になっている可能性があるということです。20年後、つまり第2次大戦から100年経って、漸く次の世紀がやってくるという感じでしょうか。
石油輸入大国であった日本にとって、これは大きなチャンスです。自動車関連産業のEV化や核融合関連の技術開発をしっかり後押しして、「石油後」の世界でも地歩を築ければ、現在の貿易収支から言っても、莫大な国債残高と超高齢化社会の社会保障費もなんとかなるくらいの利潤と繁栄を謳歌できる時代が来るかもしれません。

乗るしかない。このビッグウェーブに。

かしこ。


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顕在化する第5権力。

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とある大手新聞社のサイトに、こんな記事がありました。
内容は「左翼メディアの低質化が止まらない!」
という産経によくあるものなんですが、その中で、

マスコミは、行政・立法・司法の三権と並ぶ「第四の権力」とも呼ばれる。政治家からは、真顔で「本当は第一の権力だろう」と指摘されることも多い。ならば、自制心と自浄作用を失ったマスコミ権力は誰が監視するのか。

という記述がありまして、従来的に言うと「市民だ!」
となるわけですが、ふと考えてみると、
これはインターネット上の「ネット世論」
そのものなのではなかろうかと思った次第。
実名制を基本とするFacebookはこれには当たらなそうですが、
主に匿名メディアですね、
そこに溢れる市民の本音が
実世界を即座に動かすようになりました。

日本では政治家が謝罪に追い込まれたりするくらいですが、
アフリカなどでは政権が倒れてしまいます。
今や普通の主婦でもまとめサイトくらい読みますし、
Facebookのアカウントは持っていることでしょう。
たまにオシャレなランチをUPするくらいの人でも、
知人がシェアする政治的なニュースも目にはして、
周囲にヘンに思われないよう「いいね」はせずとも、
そこでなにかを感じてはいるはずです。

なぜ今さらそんなことを言うかというと、
ここのところ、レガシーとされる大手メディアの体たらくが、
白日の下に晒されるというケースが
本当に増えてきたように思うんです。
捏造や推測が記者の主義主張によってのみ配信されてきたことを、
市民がネットで簡単に裏取りできることで、
頻度、程度ともに急増、激増してきた、と。

面白いのはこの「第四権力」の真ん中で胡座をかいてる連中が、
その歴史的な権力移行期の只中において、
それに全く気づいていないフシがあるところです。
革命的ではない、
緩やかな衰退期にある権力階級というのは、
武士やジェントリの勃興期における
日本や英国の荘園領主たちのように
そういうものなのかもしれません。
ぼんやりと新興勢力を下に見ながら力を失っていく。

大多数の中道からの生暖かい視線を全く意に介せず、
「アベ叩き」に奔走する朝日や東京新聞は元より、
この産経の記者ですら「誰が監視するのか」ですから。
もちろんこれは「(あなたたち自身ですよ)」
という趣旨の反語として語っているのかもしれませんが、
とにかく、
これまでふんわりと「第五の権力は市民自身だ」
とされてきたのが、
漸くその輪郭がはっきりしてきたのが、
ここ数年の流れなのではないでしょうか。

この第五権力は旧来の三権に対しては、
最終的には「投票」という行動で権力を行使できます。
判断基準とする情報収集はもう第四権力に依存することなく、
SNSを含むネット上で行っています。
第四権力に対しては、不買という形で権力を行使します。
稀にフジテレビへのデモなどもありましたが、
多くの場合、日本人的な奥ゆかしさからか、
静かに距離を取るようになります。

朝日新聞の「押し紙」を除いた実売数の凋落も
すごいらしいですが、
そもそも若手は新聞すら読みません。
いま朝日新聞社の経営を支えているのは、
おそらく学生運動にノスタルジーを感じるだろう
70歳以上の年金と貯蓄です。
オマケにこの層はネットに不得手というボーナス付き。
そしてこの層の貯蓄は平均年齢的に言っても
あと10数年で尽きることは自明です。
第四権力は法に基づく基盤はありませんから、
大幅にその権力を低下させることでしょう。

グループ企業としてのテレビ局や、
下位の事業部門としてのネット部門は生き残るでしょうが、
そもそもテレビも見ませんからね。
この百年、世界の言論を形成してきた「新聞」は
信じられないことにあと10数年で
駅の切符切りのおじさんたちや街角の赤電話のように、
忽然と消滅するわけです。

「お母さん、新聞ってなあに?」
「えっとね、紙に自分たちの主義主張を書いて、
おうちに配達してたのよ」
「えー?紙に?
それぞれのおうちに配達って、お金かかりそう。。。」
「昔はスマホもなかったからね。」
「なんでその人たちの主義主張を読んでたの?」
「昔はそれが真実だと思ってたからね」
「なんで真実だと思ってたの?」
「昔はそれを確かめる手段もなかったのよ。」
「ふーん、不便な世の中だったんだね。」

みたいな会話を、おそらく今の子どもたちが
その子どもたちを交わすことになるんじゃないでしょうか。

第四権力が大きく力を失った後、
第五権力は、直接三権と対峙することになります。
否、国民主権の民主主義の下では
三権こそが国民に従属するわけですが、
注意すべきはこれまでと違って、
第五権力たるネット世論に参加するためには、
国民である必要はありません。
日本語が堪能でありさえすれば参加できますし、
共感が得られる主張であれば、
日本語さえ必要ないと言えます。
つまり「国民」ではなく「市民」ですね。

さらに特異なのは従来の権力階級と違って、
この第五権力には、
他の権力階級の構成員も含まれる点が挙げられます。
裁判官と政治家や、
官僚と新聞社社員は兼務することができませんが、
政治家も新聞社社員も、
匿名という条件下においては
第五権力に所属しています。

政治家や新聞社社員が匿名で
ネット世論に参加、扇動しようとしても、
「日本死ね」のように、
容易に暴かれてしまうのも
またネット時代の特徴と言えるでしょう。
産経の記事が言うように、
第四権力には自浄能力がなく、
少なくとも自由社会の第五権力には自浄能力がある。

ある意味、
誰もが「大衆」として参加できるのが第五権力ですが、
「大衆」は熱しやすく、冷めやすく、
そして移ろいやすいもの。
また、第四権力というリーダーを失った大衆は
統制の取りづらい集団ですが、
大衆自身の判断力や発想力を維持向上させ続けば、
きっとより良い方向に収斂していくことでしょう。

「第五権力」でググってみたところ、
さすがはグーグルのシュミット会長が本を書いてました。


第五の権力—Googleには見えている未来

さすがはグーグル先生の先生。
どうせなら原書で読んでみたいと思ったので
さらにググって見たところ、、


The New Digital Age: Reshaping the Future of People, Nations and Business

全然「第五権力」じゃないじゃん(笑)
これがネーミング力、ライティング力か。
素晴らしい。
僕もまだまだ学ばねば。

そしていつか読もうと思ってカートに入れっぱなしになり、
そのうち「後で買う」にして、
そのまま読まずに終わりそうな気がしますが、
とりあえずカートに入れときました。(笑)

20年後、
我々第五権力に支配される我々自身は、
一体どこに向かうのか。
第五権力をリードするのは何なのか。
想像するだけで面白いですね。
え、面白くない?!
性善説に基いて、
人類の叡智に期待することにします。

(つづく)


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